なつぞらのネタバレ・あらすじ

なつぞら・奥山咲太郎の名前のモデルは松田咲太郎

松田咲太郎が4代目を継いで発展させた、千秋庵総本家。大正~昭和に咲太郎が活躍する以前、明治19年の千秋庵の写真である。
画像引用元:函館最古の和菓子店『千秋庵総本家』の名物どらやき【老舗銘菓ものがたり】(サライ)

なつぞらの主人公・なつの兄は、奥原咲太郎という。この名前は松田咲太郎に由来するものだろう。

松田咲太郎とは?

松田咲太郎(まつだ・さきたろう)は、大正後期から昭和初期にかけて活動した日本の菓子職人。東京で活躍した後に函館に渡り、老舗の和菓子屋「千秋庵」の4代目となる。

千秋庵では現在でも続く名物「山親爺」を生み出し、東京時代から同業者に指導していた「どら焼き」の技術を北海道に伝えた。

東京時代

当時名店として知られていた「丸の内塩瀬」「愛宕山下・壺屋」などで、工場長を歴任する。加えて「日本菓子技術奨励会』の技術責任者でもあった。

同会は、菓子職人の派遣元2団体によって組織される、当時の製菓業界で特に大きな団体であった(この時代の製菓業界は派遣制が主流で、その人材供給元となる2団体には大きな組織力があった)。

指導書の執筆

咲太郎は製菓技術の指導書も熱心に執筆・出版した。『勅題・干支新年菓帳』は、毎年の新年の勅題(歌会始めのお題)に合わせたお菓子作りの指導書である。

こうした定期刊行の著作に加え、大正5年には『和洋菓子製法講習録』を発表。後に首相となる犬養毅が本の序文を書くほど、業界の枠を超えて注目させる、センセーショナルな著作であった。

「菊鋏」の考案者

咲太郎は、製菓道具の改良にも貢献した。彼が考案した道具は菊鋏(きくばさみ)である。

新宿ものづくりマイスター・技の名匠【和生菓子製造】井上 豪さん(しんじゅくノート)

菊鋏は上の画像のような和菓子用のハサミだ。当時の形とは違う可能性があるが、現代で使われている菊鋏は、上のようなものである。

職人は、菊鋏を使って「はさみ菊」を作る。これは下のような和菓子だ。

はさみ菊(和菓子司・風林堂)
三代目吉兵衛に請われて東京から来た 数々の銘菓を考案、 大賞の終わりにどらやき 元祖山親爺

出版物・書物

1917~1919年(大正6~8年)
勅題干支新年菓帖 大正7-9年【※】(国立国会図書館サーチ)
1918年(大正7年)
和洋菓子製法講習録(第1輯)(国立国会図書館サーチ)
1920年(大正9年)
和洋菓子製法講習録(続編)(国会図書館サーチ)
1920~1922年(大正9~11年)
御題干支新年菓帖「辛酉・壬戌・癸亥之巻」(NDL ONLINE)

※本の題名に「大正7-9年」となり、出版年が「大正6-8年」なのは、間違いではない。実際に国会図書館の書誌情報でそう書かれている。『新年菓帖』というタイトルの本だが、この「新年」に理由があると思われる。

上野に出した菓子屋「うさぎや」は、すぐに軌道に乗った。喜作が、菓子づくりの名人・松田咲太郎と親しかったことも大きかったといわれる。初めはせんべいを主にし、やがて最中で当てた。

菓子街道を歩くNo.132 東京・上野(あじわい)

そんな和菓子の技は、3代目がかつて東京で教えを受けた松田咲太郎が伝えたもの。菓子づくりの名人と謳われた咲太郎は、3代目に乞われて函館を訪れますが、直後に発生した関東大震災で東京が壊滅状態となり、そのまま千秋庵総本家の4代目として函館に留まることになりました。

咲太郎が北海道の菓子界に残した足跡は大きく、大正10(1921)年に小樽千秋庵の職長が独立して札幌千秋庵を開業。その札幌千秋庵からも職人が次々と独立して、菓子作りの技を道内に広めていきました。

千秋庵総本家の「どらやき」~ほっかいどうお菓子グラフィティー(10)

佐々木吉兵衛の没後、襲名した2代目、3代目の佐々木吉兵衛が繁栄の礎を築いた後に、4代目として店を受け継いだのが松田咲太郎という人物だ。

松田は東京出身の菓子職人で、在京の有名菓子店の工場長を歴任し『日本菓子技術奨励会』の技術責任者を務めるなどして活躍した後に、満を持して函館にやってきて店を継いだ。そして今にいたる名物となった「どらやき」と「元祖山親爺」の生みの親となった。

(中略)

さて、4代目の松田咲太郎は東京時代に「どらやき」の製法を後進らに指導しており、今も都内有名店にその味が引き継がれているという。そんな咲太郎が『千秋庵総本家』の看板商品に育て上げたのも「どらやき」だ。

函館最古の和菓子店『千秋庵総本家』の名物どらやき(サライ)
千秋庵総本家では大正時代の末より4代目松田咲太郎により「どらやき」を作り始めました。 どらやき(菓子王国 北海道)
看板商品の「どらやき」と「元祖・山親爺」は、4代目松田咲太郎が東京時代の技を生かし大正末より「どらやき」を昭和の初めに函館らしいハイカラな和洋折衷のお菓子として「元祖・山親爺」を考案し世に出し今も皆様に好評をいただいております。 どらやき(菓子王国 北海道)

山親爺の開祖 4代目・松田咲太郎

咲太郎氏は東京生まれの菓子職人。千秋庵4代目となる前は、名店である丸の内塩瀬、愛宕山下・壺屋などの工場長を歴任し、また、当時派遣制が多かった菓子職人の業界で職人の派遣元2団体が主催する「日本菓子技術奨励会」の技術責任者となる腕を持つ人物であった。

ここでは弟子の職人を各地に派遣する一方、毎年の新年の勅題(現在の歌会始めの御題)に合わせた菓子製法帳『勅題・干支新年菓帳第の発行のほか、大正5年には当時としてはセンセーショナルな『和洋菓子製法講習録』なる菓子の指導書を発表して注目を集める。それがいかに画期的なものであったかは犬養毅元総理が本の序文を記していることからもうかがい知れる。

その他にも、引き菓子として作られる「はさみ菊」に用いる菊鋏の考案者であるなど、その功績は枚挙にいとまがない。

函館へ渡り、千秋庵4代目として手掛けた菓子の中でも『元祖山親爺第、『どらやき』は今も店が誇る二枚看板だ。この二つが誕生し、現在の千秋庵の姿が確立した。

千秋庵の千秋庵たる所以。(一般財団法人・日本地域情報振興協会)
そうした中、三代目吉兵衛に請われて東京から来た「松田咲太郎」が四代目を継ぎ、数々の銘菓を考案し発展の基礎を築きました。現在販売している元祖山親爺(やまおやじ)も咲太郎が開発し、全道の各千秋庵に製法を教えました。 歴史(函館千秋庵総本家)
4代目・松田咲太郎は大正の終わり頃から「どらやき」、昭和のはじめからは「元祖山親爺」を作り始めており、のれん分けしていた北海道内の千秋庵に製法を伝授していった。 Wikipedia「千秋庵総本家」の「主な商品」の段落

その頃、お菓子の神様と呼ばれた松田咲太郎さんという、当時のお菓子のコンサルタントのような人と出会い、「じゃあ、菓子屋をやってみよう」という話になったようです。

業界人インタビュー「うさぎや」|スイーツ大好き委員会
松田咲太郎「和洋菓子製法講習録続編」
大正9(1920)年

さまざまな菓子のデザインや製法を紹介した図案帳。和菓子はもちろん洋菓子も多数掲載されており、ここでは右に昔ながらの和菓子「松風」、左にデコレーションケーキが描かれています。

京都MUSEUM紀行。第十二回【京菓子資料館】※中盤「企画展」の段落を参照|京都で遊ぼうART(京都文化推進委員会・運営)
和洋菓子製法講習録 (第1輯)|Amazon.co.jp 和洋菓子製法講習録. 第1輯(国立国会図書館デジタルコレクション) https://magazineworld.jp/brutus/brutus-editor-880/

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